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当番組のPodcastは・・・
毎週日曜日の午後8時に最新版を
アップしています。
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『TRAVELLING WITHOUT MOVING』・・・
「動かない旅」をキーワードに旅の話と、
旅の記憶からあふれだす音楽をお届けします。
ナヴィゲーターは世界約50ヶ国を旅した野村訓市。
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--- “ありがとう”の気持ち ---
テーマは「恩人」
バックパッカーとしての日々に区切りをつけ、
地に足をつけた生活をスタートした訓市に
チャンスを下さった恩人
訓市に夢を託して100万円を
ポンと貸してくださった恩人
訳あって関係が絶たれた後は
“反面教師的”存在となった恩人
様々な思いを胸に抱いた訓市が現在の心境を語る
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「旅」と「音楽」に関するエピソードや
思い出の“お便り”をお待ちしています。
「旅先で聴きたい曲」のリクエストも大歓迎!
番組サイトの「MESSAGE TO STUDIO」から
“お便り”を送信してください。
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MUSIC STREAM
動かなくても旅はできる。
ミュージック・ストリームに
身をゆだねてください。
Perfect Timing / Ray Saetta
Sisters With Me / Tom Misch
Something / The Beatles
The Waiting Game / Harry Styles
みんな夢の中 / Honzi
Lakebridge / Okonski
Theories / Jonny Nash
Jacobs And The Stone / Emile Mosseri
Open / Cktrl
ON AIR NOTES
どんな会話を交わしたのか。
何を見たのか、何を聞いたのか。
その音の向こうに何があったのか。
KUNICHI was talking
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僕が長いバックパックの旅を一度本格的に止め、仕事を始めようと決心したのは99年のことでした。旅が好きで新しい場所に着いた時の興奮とか、そこにどうやってやって行くかのドキドキもいつの間にか慣れて冷めてしまい、惰性で旅を続けているというか、ただ現実と向き合うのが怖くて続けていた気もしましたし、いつかは終わりが来ると感じていたことが、もうこれ以上無理に引っ張れないなあと思った頃でした。嘘偽り本当に無一文で、しかも同い年の友達たちがもう社会人になって数年経ち、「今はこれを覚えた」とか「これから大学院行く」とか「ああしたい」とかっていう会話を繰り広げている中で、自分はまさか本当の浦島太郎になってしまったと。しかも何がしたいか本当に分からず、友達の家に引き篭ったりしていました。その引き篭もりもこれ以上できないというほど切羽詰まった時になって、僕は日雇いの仕事を始めたりしました。体を動かしていると何も考えなくて済む。そして、給料が貰える。体を動かしているうちに少しずつ心に余裕が持てた初夏のある日、青山にある家具屋さんにあるカフェがオープンしてから随分と経ち、「飲食店だからそろそろペンキを塗り替えたい。そのために安く塗ってくれる人を探している」という話が回ってきました。僕は今も「トリップスター」という名前の内装屋をやっています。立ち上げたのは同い年のバックパッカーだった2人の友達で、今でも一緒に働いているのですが、この2人もちょうど長い旅から帰り、これからどうしようかと揃いも揃って引き篭っていた時の事でした。そしてその1人が全く経験が無いのに「大工になりたい」と言い出した頃で、「大工でも内装の基本はペンキ塗りだ」と、ちょうど話していた時でした。「ペンキ塗りならアメリカでも日本でもやったことある。このカフェのペンキ塗りをやらしてくれと頼むか」と2人に掛け合うと2人もやるって言いましたし、仕事と家を探していた女の子も1人、合計4人でやりますと返事をすると、「大体広さでいうと1週間かかるだろうが報酬は20万でよければ」という答えがありました。1週間、まあ1人5万円ずつ。その頃の僕らにとってはすごく大金で、しかも食事が付くというので二つ返事で引き受けました。深夜、営業が終わったカフェに出向き、買ってきた養生テープやペンキ、ローラーを持ち込んで、1番小さな壁を塗るところから取り掛かりました。よもや素人だと思われないように、プロの仕事だと思われるように、僕らは真剣に塗りました。まず縦に塗って横に塗って、刷毛の跡が残ってる気がしたらまた縦塗りをして横塗りを繰り返す。朝になるまでに塗れた面積というのは笑えるほど小さかったのですが、夜明けに仕上がりを見た時、これ以上は無理だろうというレベルに仕上がっており、僕らは満足して居候先へと帰りました。翌日、その会社から「社長が仕上がりを見てスプレーで塗ったのかと思うくらい丁寧な仕事だ。ぜひ、塗ってくれた人に会いたいと言っている」と言われました。それが、僕の恩人との出会いでした。会った時に「ヒッピーみたいな奴が今の世の中にまだいるのか」とびっくりされたのと同時に恩人は、「僕も若い頃そうだった。しかも、僕はずっと面白いことをやり続けたと思っていたけれど、会社も大きくなり会社でやるのはもう無理だ。だから、君たちに100万円貸すから面白いことをやって見せてくれ」と言われました。
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100万円、とんでもない大金でしたが、いざ返せなくても4人で日雇いでも1ヶ月やればなんとか返せるだろうということになり、社長にぜひ貸してくださいと伝えました。そうして考えたのが湘南の辻堂に作った海の家「スプートニク」でした。スプートニクという名前は世界最初の人工衛星の名前でもあり、僕が大好きだった文学ビート文学の「ビートニク」という言葉の語源でもありました。社長はその名前をいたく気に入って、「そのまま本を作ったら?」と言われました。それが僕が世界を半年かけて2周し、もう半年をかけて編集して作った、もう20年以上前になるんですけども、インタビュー雑誌『sputnik:whole life catalogue』となりました。生まれて初めてやった、ちゃんとした仕事と本。それはやがて僕の名刺代わりとなり、ライターや編集業をするきっかけとなりました。あまりにもランダムな事とか人を書いていたので、「これできる?あれできる?」っていうところから内装をやったり、映画製作にかかわったりと、今ある僕の原型を作ってくれました。“何でも屋の訓市くん”、今となってはそういう風に知られて色んな方が仕事をしようと声をかけてくれるようになりましたが、昔まだ何もしてなかった頃にはもちろんそんな人は1人もいませんでした。まあ、当たり前ですよね。面白そうな子だと思われたとしても何も成果物も成していることもなかったのですから。そんな時にお金をかけてきっかけをくれたのはその社長だけでした。その後、社長とはどうなったか。4年ほど色んなプロジェクトで一緒に働きましたが、会社で色々なことが起こり、話すと長いんですけども、近くにいて割と耳障りの良くないこともはっきりと言ってましたから最後はケンカ別れのようになってしまいました。それが20年くらい前のことです。ケンカ別れになっても、その社長っていうのは僕にとっての、まあ本人が喜ぶかどうかは分かりませんけども反面教師のようになりました。ぼくが仕事を大きくしたり会社の規模を大きくしようと決してしなかったのはその時の経験からですし、ライフスタイルを扱う会社だったんですけども、教えてもらった素敵なライフスタイルより自分はもっとリアルな身の回りの手に取りやすいものだけに集中するようになったのもそうです。まあ、ある意味、それまで社長が当時人生をかけてやってきたことの真逆の道を辿ったとも言えます。でも、それがいいと思うようになったのも当時の色んな経験があったからこそです。きっとどこかで、「あの生意気な奴め、いつまで突っ張ってるんだろう」と苦笑いしながら見ているだろうという確信がありました。一度別れたら上辺の友達付き合いなんてできそうもない人でしたし、同じように相手も僕のことを思ってるとも確信がありました。けれど先月の終わり、突然社長が入院後亡くなったという話を聞くに及んで、僕は深い深い後悔の念を持った日々を過ごすことになりました。「あの時は僕を拾ってくれて、機会をくれて、本当にありがとうございました」と言っていなかったこと。折に触れて、本ができた時とか海の家ができた時とか、もちろんお礼は言いましたし、仕事をしている時も、「こんな機会をありがとうございました」とも言っていました。けれど別れてから互いの道を離れて、長い長い時間を過ぎた後に、「こんな道を歩けるきっかけはあの時でした。本当にありがとうございました」と伝えていなかったことに気づいたんです。いつか言おう、いつかこうしようといういつかは当たり前のように存在するわけではない。分かっていたはずなのにやってなかったです。亡くなった後にこうしてラジオで話すことでもないのですが、今日こうやって話しているのはリスナーの皆さんの中にもお世話になってからお礼をちゃんと言えない人、きっといるかと思ったからです。どうかこの放送を聞いて、「そうだ、自分にもそういう人がいて、何も自分の感謝を伝えてない」っていう人はこの放送が終わったらすぐ電話をするなりメールをするなりしてみてください。後悔する前に。社長の名前は黒崎さんと言います。遅くなりましたが、黒崎さん、本当にお世話になりました。またいつかどこかで。
野村訓市
1973年東京生まれ。幼稚園から高校まで学習院、大学は慶応大学総合政策学部進学。
世界のフェスティバルを追ってのアメリカ、アジア、ヨーロッパへの旅をしたトラベラーズ時代を経て、99年に辻堂海岸に海の家「SPUTNIK」をプロデュース。世界86人の生き方をたったひとりで取材した「sputnik:whole life catalogue 」は伝説のインタビュー集となっている。
同名で「IDEE」よりインテリア家具や雑誌なども制作。現在は「TRIPSTER」の名で幅広くプロデュース業をする傍ら、ブルータス等の雑誌などで執筆業も行う。


